一高正義派の決起
『会報 2010年号 平成22年5月』
仙台一高第四回卒業生同期会
仙台一中入学それから6年 ○○○
・・・・・
かくして一中最後の入学生になった。毎日が生きることで精一杯なのだから、不思議なことでもなかった。
古色蒼然として堂々とたたずむ茶畑の校舎は質実剛健の校風そのものであり、威厳の中に親しみをもって迎えてくれたのである。伝統的な旧制中学校の授業形態が、旧態依然として存続していた。漢文・英語・文法・英作文・幾何・代数・東洋史…個性あふれる名物先生の指導に引き込まれ、新鮮さと共に楽しく充実感があった。
校舎の破損はひどく破れ放題だった。驚いたけれども、それほど気にしなくて済んだのは、日頃の生活・暮らしに普段見慣れてきたせいかも知れない。戦争の非常事態の中をくぐり抜けてきて、学校の校舎管理・営繕に手をかけるような閑も人手もなかったのだから、ごく当然だったのだ。しかし我々には、そこまで考えが及ぶはずも無く、ただ楽しく安住の栖となっていたのだ。
しかし冬は実に大変だった。ガラスの無い窓から吹き込む雪、朝は机の上に積もった雪を払うことも珍しくなく、ダルマストーブに亜炭の配給はあったがそれで間に合うわけがない。校舎内外から燃えるものを探して燃料としたが、やがて壊れかけた腰板・机・腰掛まで燃料になってしまう事態を招いた。
こんな状況の中、校舎内外の破壊が進んだことから、4、5年生の先輩有志が立ち上がった。校舎の現状を憂い、校舎愛護と校内美化を強く訴え、一中の愛校精神を全校生に呼びかけたのである。彼らは文化部・運動部を問わず全校生から信頼を集め、慕われている人たちであった。彼らはリーダーとなって率先して小破修理に当たった。彼らの熱烈な愛校精神と自主的行動力は全校生に大きな感動を呼び起こした。この頃のことが強く印象に残っている。
山本穆彦氏 22年卒 中53回 ボクちゃんと呼ばれ信頼される
佐々 宏氏 22年卒 中53回 復活一・二中野球、投手として活躍
柿崎五郎氏 (故人)23年卒 中54回
岩井文雄氏 (故人)24年卒 高1回
松岡昭夫氏 (故人)24年卒 高1回 復活一・二中野球・サッカー・応援団でも活躍
このことは、「仙台一中、一高百年史」の中で正義派の生徒たちが、荒廃した一中を救い、その功績は本校史上永く銘記されなければならないと述べられている。
・・・・・
『仙台一中、一高百年史』平成5年
(193ページ)正義派の決起 このような雰囲気の中で、本校生の一部有志の間に愛校精神を掲げて、いわゆる「正義派」生徒が起ちあがった。彼等は松岡昭夫、岩井文雄、山本穆彦等を中心として、燃料にされそうな材料を夜おそくまでかかって倉庫に運搬をしたり、愛校論文の懸賞募集したり、各クラスの清掃得点競争をやったり、教室には花さえ飾るようになった。終戦後の混乱、退廃のどん底から、一中の校風を挽回すべく、彼等が努力したその功績は、本校史上永く銘記されなければならない。しかも他校がこの混乱期に幾多の不祥事件をひき起したのに対し、本校の場合は、正義派生徒の決起によっていち早く混乱、退廃から脱却し、見事に校運発展の礎を築いたことはまさに名門一中の面目をいかんなく発揮したものであった。
仙台一高第四回卒業生同期会
仙台一中入学それから6年 ○○○
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かくして一中最後の入学生になった。毎日が生きることで精一杯なのだから、不思議なことでもなかった。
古色蒼然として堂々とたたずむ茶畑の校舎は質実剛健の校風そのものであり、威厳の中に親しみをもって迎えてくれたのである。伝統的な旧制中学校の授業形態が、旧態依然として存続していた。漢文・英語・文法・英作文・幾何・代数・東洋史…個性あふれる名物先生の指導に引き込まれ、新鮮さと共に楽しく充実感があった。
校舎の破損はひどく破れ放題だった。驚いたけれども、それほど気にしなくて済んだのは、日頃の生活・暮らしに普段見慣れてきたせいかも知れない。戦争の非常事態の中をくぐり抜けてきて、学校の校舎管理・営繕に手をかけるような閑も人手もなかったのだから、ごく当然だったのだ。しかし我々には、そこまで考えが及ぶはずも無く、ただ楽しく安住の栖となっていたのだ。
しかし冬は実に大変だった。ガラスの無い窓から吹き込む雪、朝は机の上に積もった雪を払うことも珍しくなく、ダルマストーブに亜炭の配給はあったがそれで間に合うわけがない。校舎内外から燃えるものを探して燃料としたが、やがて壊れかけた腰板・机・腰掛まで燃料になってしまう事態を招いた。
こんな状況の中、校舎内外の破壊が進んだことから、4、5年生の先輩有志が立ち上がった。校舎の現状を憂い、校舎愛護と校内美化を強く訴え、一中の愛校精神を全校生に呼びかけたのである。彼らは文化部・運動部を問わず全校生から信頼を集め、慕われている人たちであった。彼らはリーダーとなって率先して小破修理に当たった。彼らの熱烈な愛校精神と自主的行動力は全校生に大きな感動を呼び起こした。この頃のことが強く印象に残っている。
山本穆彦氏 22年卒 中53回 ボクちゃんと呼ばれ信頼される
佐々 宏氏 22年卒 中53回 復活一・二中野球、投手として活躍
柿崎五郎氏 (故人)23年卒 中54回
岩井文雄氏 (故人)24年卒 高1回
松岡昭夫氏 (故人)24年卒 高1回 復活一・二中野球・サッカー・応援団でも活躍
このことは、「仙台一中、一高百年史」の中で正義派の生徒たちが、荒廃した一中を救い、その功績は本校史上永く銘記されなければならないと述べられている。
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『仙台一中、一高百年史』平成5年
(193ページ)正義派の決起 このような雰囲気の中で、本校生の一部有志の間に愛校精神を掲げて、いわゆる「正義派」生徒が起ちあがった。彼等は松岡昭夫、岩井文雄、山本穆彦等を中心として、燃料にされそうな材料を夜おそくまでかかって倉庫に運搬をしたり、愛校論文の懸賞募集したり、各クラスの清掃得点競争をやったり、教室には花さえ飾るようになった。終戦後の混乱、退廃のどん底から、一中の校風を挽回すべく、彼等が努力したその功績は、本校史上永く銘記されなければならない。しかも他校がこの混乱期に幾多の不祥事件をひき起したのに対し、本校の場合は、正義派生徒の決起によっていち早く混乱、退廃から脱却し、見事に校運発展の礎を築いたことはまさに名門一中の面目をいかんなく発揮したものであった。
この記事へのコメント
(192~193ページ)【過渡期の混乱】終戦後から昭和23年4月新制高等学校となるまでの本校は、教育体制においてのみだけでなく、生徒の間においても戦後の過渡期としての混乱が続いた。特にインフレの進行、食糧難、国民生活の窮乏、労働運動の台頭争議の頻発等、当時の社会の影響を受けて、生徒達が落ち着いて勉学に専念出来るという環境ではなかった。宮城県下においても前述のような学校騒動が起り、或いは生徒の左翼運動が、ようやく見られるという状況であった。生成達も教員組合の組織に懸命な運動を続けていた。軍国主義から民主主義への転換が急激に各方面に進められた結果、行き過ぎが多かったことも当然であった。しかし当時の本校の状態をみると、生徒達に多少の動揺があったにしても全体の態勢は堅実に進行し、生徒がよく自重したことは、それが当面の上級学校受験に頭を使っていたことにもよろうが、やはり本校生の良識が常に生徒としての軌道を逸脱せしめなかったものと考えられる。また本校教職員がよく生徒の指導を誤らなかったということも大いにあずかって力があった。ともかく終戦後の本校が他校にみられたような甚だしい行き過ぎや、動揺がなかったことは、本校のためにまことに喜ばしい限りであった。とはいえ、やはり終戦後の道義の混乱という時代風潮をうけて生徒としての軌道をふみ外す者もないわけではなかった。机の腰板をはがしたり、講堂の椅子獲得の特攻隊が出たりして燃料を求めた現象も、当時の本校生の一コマであった。この頃の本校は、廊下側の窓枠さえなく、いわんや窓には硝子が所々にしかないという程の荒廃ぶりで、冬季に吹雪でもあると、教室内に雪がたまるという有様で、先生も生徒も外套を着たままで授業するのが常であった。しかも予算難で燃料も不足していたから、生徒の一部分子が不完全な机、腰掛その他燃料に格好なものをあさったのであった。また燃料にしても惜しくもない程いたんでいた机や椅子が大部分であった。窓ガラスや窓枠さえなかったので、生徒達はいろいろな紙や板をはったりしてガラスに代え、外からみると、本校はまるで、つぎはぎだらけのボロ学校で、市民の笑い話にさえなった程だった。本校の歴史上、校舎がこれ程までに荒廃したことはなかった。